こんにちは、転職続きのガッツです。転職続きの過去ということで、今回は、新聞配達をしながらの大学生の時の私を紹介させて頂きます。
「パニック障害」の傾向がある私を紹介してきましたが、高校生の時に、良き環境にいたおかげで、「頑張る自分」を出せるようになってきました。
大学生の時は、新聞配達もやりつつだったので、どこで「頑張る自分」を出せば良いか、迷いながら過ごしていました。
「パニック障害」のある傾向の体質、性格は変わっていませんでした。
一応、卒業はできたのですが・・・・
どんな生活の流れだったのか、苦痛だったこと、楽しくできたこと、就活のことを紹介させて頂きます。
現在の仕事は、YouTubeでも動画をあげています。
新聞配達をしながらの生活の流れ
新聞配達をしながらの生活の流れは、
・朝刊配達
・大学
・夜の集金
・大学が休みの時は夕刊もやっていました
・チラシ配り
という業務内容でした。しっかり、大学に通えるように業務内容を組んでもらっていました。
新聞配達、覚えるまでは、とても大変でした。
身体的にはキツかったのですが、1人で行う作業が多かったので、私的には、嫌いじゃない仕事でした。
社員さんたちも、とても良い方ばかりでした。
高校時代の時でもお伝えしたのですが、私は、高校時代の先生のつながりで、
新聞販売店を紹介して頂き、特別な業務内容で働かせてもらっていました。住み込みでした。
大学は、某体育大学に通っていました。
大学2年の時に、私の業務内容が大幅に変わることになるのですが、
この新聞配達の内容は、違う記事で出させて頂きます。
という感じで生活をしていました。
大学生活 苦痛だったこと
「パニック障害」の傾向があった私が、大学生活で苦痛だったことは、
- 通学
- 授業
- テスト
(通学)
朝刊が終わって、7:00前ぐらいには出発して、電車に乗るようにしていました。
もちろん、通勤時間とかぶっていたので、満員電車の中では、汗びっしょりです。
高校時代のように、早めに出発するというのは、配達が休みの日しかできなったので、かなりキツかったです。
1・2年の時は、キャンパスが神奈川でした。電車を降りてから、バスで10~15分ぐらい。
バスも、学生でいっぱいになるので、「パニック障害」の傾向がある私にとっては、本当に通学はキツかったです。
せめてバスだけでも満員を避けたいと思い、働かせてもらっていた新聞の販売店で、未使用の自転車があったのをもらい、下道で40kmこいで、神奈川の最寄りの駅まで行き、駐輪場を契約して、バスは使わず、自転車通学もしていました。
大学2年の時に、自動二輪の免許を取ったので、卒業するまで、バイクで通学するようになり、苦痛が解消されました。
経済的に厳しかったのに、免許、取っちゃったんです!バイク、貰っちゃたんです。ガソリン代、当時、めちゃくちゃ安かった気がします。
なぜ、そんなにお金があったのか、新聞配達の時でお伝えします。
(授業)
ほとんどの学生が、教員免許を取ることを前提に大学に通ってきていたので、必修単位と教員免許を取るために必要な単位の授業は、いつも、人数が多かったです。特に、1・2年生の時。
はじめは、頑張って先頭の方に座るようにして授業を受けていたのですが、後ろからの視線が、めちゃくちゃ気になりました。
気になり出すと、次第に心拍数が上がっていき、体温が上昇し、汗びっしょり。
授業どころじゃなくなってしまったので、なるべく早めに教室に行って、端、もしくは、1番後ろに陣取って座るようにして、授業を受けていました。
大学の机って、長机が多いじゃないですか!タイミング悪く、真ん中に座った時は、まったく授業に集中できなくて、最悪でした。
(テスト)
やはり、授業を受けているだけではわからない部分もあり、勉強するにも限界がありました。
そうなってくると、先輩から、過去の出題範囲などを聞いて勉強したりすると思うのですが、
私は、部活やサークルに所属していなかったので、先輩は、ほとんどいませんでした。
必然と、先輩から教えてもらっていた同級生に聞く事になるのですが、もともとコミュにケーションを取ることは上手ではなかったので、いつも、心臓をバクバクさせながら教えてもらっていた記憶があります。
「私みたいな人間が、あの人に聞いても良いのだろうか?」というような気持ちでした。
通学、授業は、体質のせいで、かなり神経を使っていて、テストの時期は、引っ込み思案な性格になっていていたので、コミュニケーションを取ることに、さらに神経を使っていたので、キツかったです。
この部分を書いていて、なんか、現在も同じ感じだなと思っています。
この体質、性格は、なぜか、変わらないです。
変えようとすると、変えられなくて、無力感に襲われます。
どうしようもないっすね!
でも、いっか!今、できること、できるところまでやってみます。
大学生活 楽しくできたこと
「パニック障害」の傾向があった私が、大学生活で楽しくできたことは、
- 実習
- 同好会
(実習)
遠泳、スキー、教育実習は、率直に楽しかったです。
ひたすら「泳ぐ」、ひたすら「滑る」、ひたすら「先生」。
期間が決まっていたから、頑張れたのだと思います。
どれも上手くはないですが、この場面では、「頑張る自分」を出せていたんじゃないかなと思います。
決まった枠の中で、そこまでコミュニケーションを必要としないことに、楽しさを感じるのだなと思いました。
教育実習は、先生方、生徒とのコミュニケーションは必要でしたが、
先生方がある程度、生徒との信頼関係を作っている土台があったので、
その土台の中に溶け込んで、高校生の気分に戻った感じでやっていました。
指導案を考えるのは大変でしたが、率直に楽しかったです。
この先の記事で書かせてもらうのですが、「教員」を目指していた時期もあり、「非常勤講師」とういのをやっていたことがあります。
めちゃくちゃ、コミュニケーション能力使います。諦めました。
(同好会)
新聞配達の仕事もあったので、大学でスポーツをやることは諦めていましたが、
たまたま、声をかけてくれた友人のおかげで、大学3年の時に、サッカー同好会に入れてもらいました。
昼休みに、サッカーをやっているのは知っていて、「いいな」とは思っていたのですが、
性格、体質が引っ込み思案になっていたので、私は遠くから眺めているだけでした。
その友人も高校時代の友人のように、積極的に私の領域に入ってきてくれ、またその仲間も、同じようなメンバーで、その日のうちに、私を受け入れてくれました。
その仲間とは、
大学祭のフットサル大会で優勝?準優勝?したり、卒業サッカー合宿旅行へいったりなど、
私の中で、大学生活を充実したもに変えてくれ、大学生としての楽しみを味合わせてくれました。
大学でも、良い仲間に、恵まれ、「頑張る自分」を出せる場所を見つけることができました。
就職活動は、・・
就職活動は、ほとんどしていませんでした。
4年生の時は、
4月
車の免許を取りに行き始めました。7月に取得。
6月
教育実習
7・8月
教員採用試験の勉強。1次試験で落ちました。
教育実習先の高校のサッカー部に参加
9・10・11・12月
恥ずかしい話なのですが、サッカーができる環境にいきたくて、働きながらサッカーができるチームの試験を受けにいっていました。受かりませんでした。
あと、卒論作成をやっていました。
1・2・3月
バイト
卒業旅行
先の事を考えると頭の中が真っ白になってしまうので、目の前のことだけ考えて行動していました。
卒業間近になって、就職先のことを考えるようになり、
2社だけ面接を受け、1社合格したので、何も考えず内定した会社を選び進んでいきました。
当時は、下手なくせに、自分が、サッカーやることしか考えていなかったですね。
求人は、高校時代の友人が教えてくれた1社に合格しました。
教えてくれていなかったら、無職でした。
今日はここまで、
転職続きの過去の学生編は、今回で、終了です。
大学時代も、様々な方に、守ってもらっていました。
新聞販売店の所長、社員さん、一緒に働いていた仲間、販売店のあった地域の方々など、
暖かく見守ってくれる方が、多くいてくれたおかげで、「パニック障害」の傾向がある私でも、
なんとか生活ができ、大学も卒業することができました。
表現の仕方が悪いかもしれませんが、「逃げ道」、「隠れる場所」が、多くありました。
販売店から、私の実家も、さほど離れていなかったので、よく帰っていました。
リセットできる場所がないと、ダメみたいですね。
さあ、社会人!
次回からは、社会人になって、今までの仕事の退職理由などを振り返っていきたいと思います。
特別な知識、技術、経験もない転職続きガッツ、フリーランスやっていけるのかな・・・
でも、記事を書いていて、コツコツできる仕事をギグワークが、私に1番あっているのかも・・・
コメント